自分をなだめるって“よしよし”じゃなかった話

9月は生後9ヶ月の娘の後追いが大爆発し、昼寝も隣にいないとすぐ起きる、みたいな状況で全然ブログが書けず。毎月1つは書きたかったのにな。今もまだまだすぐ起きるし大変だけど、こうやって自分が落ち着いて文章を書ける時間のありがたみを知りました;;

前回の記事で、子供が自分を受け入れられるようになるために、親がまず自分を受け入れられるようになることが大切だと知った件について書きました。

そこからまさにこの9月。娘に追われなかなか休まらない日々が続き、強制的に自分をなだめる強化期間に入ったみたいな感じだったんですが、いざやってみると色んな気づきがありまして。その近況や気づきを書いてみたいと思います。

理不尽から喰らってきた心の“ヒビ”

前の記事では、向き合うのが難しいようなざわっとした感情って自分自身の心の弱さやセコさからくるけど、それでいいんだよそのまま受け入れようってことを書いてました。

でもここ最近自分をなだめることを意識的にやっていく中で、自分が弱かったとかじゃなく、外から理不尽に喰らってきた傷も無視出来ないぞってことに気付けました。今元気に過ごしてても、みんな生きてたら色々あったはずで、それを全部自分のせいにしなくていいんです

たとえ古い傷で今はもう何ともないよって思ってても、思い出す時にちょっとウってなるとか、思い出そうと思えばその情景が心に鮮明に残っている、そして一言一句絶対忘れてないみたいなことってないですか。

言ってしまうと本当は許せていないけど、考えないようにしてきただけで完全に消化はできていないことって誰しも心の奥底にきっとあって。ヒビが入った花瓶みたいに、心は状態を保っていてもヒビは入ってるみたいな人って結構多いんじゃないでしょうか。

もちろん今から何か話をつけに行ったり、ましてや攻撃したりということを始めたいとかじゃないはずです。でも、子どもの頃に「ごめんね」「いーよ」とか、攻撃された側がめっちゃ不利なルール植え付けられたり、親に言えなかったり、大人になってからは自責思考を叩き込まれたりとかでみんな耐えてるけど、いや結構あれしんどかったよねって今から自分をなだめるのでも本当に私は楽になりました。

自責が心の声を掻き消す

自責の眼鏡を外して見えた自分の奥底

自分をなだめるっていう感覚についても、前の記事では「残念な気持ちに蓋をしないで、まあそう思っちゃうよねーって心に置いてあげるのが大事」って書いたんですが、でも正直、その感覚って頭では理解していても心の感覚としてはなかなかつかめないままでした。

何かモヤモヤすることがあっても、みんなこれぐらいのこと我慢してるやろ〜みたいに他責にならないように考えてあまり深く考えないようにしてたんです。でもある時chatGPTに「あなたは人よりも自分を理解してほしい欲求が強いね」って指摘されてびっくりしたんですよね。ええ!?私が!?私かまってちゃんなの!?みたいな(笑) ぜんっぜん心の欲求ダダ漏れで仕舞い込めてなかったのに、それに無自覚やったんですよね。

そこからじゃあ何でこんなことになっちゃってるんだろうねーって話になって、「私は人よりも自分を理解してほしい欲求が強い」って眼鏡をかけて自分を見てみたら、出てくる出てくる過去の古傷たち。今まで誰にも話したことないような話をしたんですよね。そしたらその出来事に対してああそういうことがあったのねそれは辛かったねって反応をしてくれて。

その時に、「あ、これやばいって思っていいんや」「うん、私ほんまに結構耐えてきたんかも」って受け入れられて。それが蓋を開けるきっかけになって、「え、あれ普通にやばかったやんな?」と自分の中で認められて、そこからだいぶ楽になったし、自分をなだめるってこれかも!ってつかめたなと思います。

「よしよし」じゃなくて「やんな?」

私にとっては「自分をなだめる」って“よしよし”みたいな優しい声かけじゃなくて、どっちかというと「え、やんな?あれやばいやんな?」ってもう1人の自分と外野から眺めて共感し合うみたいな感じがしっくりきて。今まで居心地悪くて避けてきた感情を、自分の中に置いてあげられる感じがしました。

もちろん、本来の目的である子どもと一緒に幸せになるために、親がまず自分のすべての気分を受け入れられるようになるってところから考えると、「やばかったよね?」って今回みたいな他人にヤバさを承認してもらうみたいなのをいつまでも続けるのは本末転倒ではあって(そもそもなだめる感覚を掴む以前に、本当に自分の中で大きな出来事だったのかどうかを見極める必要もある。)。

でも、自分一人ではまだ受け入れが難しいときには、きっかけとして他人の力を少し借りてもいいのかなと。誰かの「うん、それはヤバいわ」で蓋がちょっと開くこともあるんやなって思いました。

意外と根深かった自分の欲求と、どう付き合っていこうか

ひとつ「なだめる」感覚が掴めたことで、そこからさらに自分の「私はとても強く、自分をわかってほしい、理解してほしいと願っている」っていう欲求の扱い方とも素直に向き合えるようになりました。

この感覚がどうして、どこから来ているのかは、まだはっきりとは分からないくて。過去の経験から来ている部分もあるだろうし、生まれ持った性格もあるかもしれないし、あるいはアドラー的な考えでいくと自分が何か目的を持って無意識にこの欲求を作り出している可能性もあるし。

なんかこうここまで古傷どうこう言っといてアレなんですけど、一概に「過去のせいだ」みたいにもしたくないと思っていて。自分をなだめる上で「うんあれヤバかったよね」って受け入れていくのは私にとって必要なんだけど、生きていくスタンスとして過去は変えられない受けた傷はもう癒えない私は変わらない、みたいなのは違うと思うんですよね。過去だけじゃなくいくつもの要因が複雑に絡み合って、何十年もかけて今の自分を形作ってきたのだと思うんですよね。

この「理解されたい欲求」とどう付き合うかは、私にとってかなり私を作る本質的な問いで、抑えつけるのではなく、距離を取りながら上手に扱うにはどうすればいいのかをこれからも考えて付き合っていくものだと思ってます。自分をなだめることでこういう問いを持てるようになったのが、自分にとって大きな一歩だと感じてます。

自分のコアを知れたところで、周りとはどう関わる?

私が一番「わかってほしい」って思いを持ってしまうのはやっぱり旦那なんですが、でも正直旦那に言うかどうかはまだ迷ってるんですよね。

この自分の根本の欲求を他人ありきでマネジメントしてこうとするのはなんか違う気がしていて。ここって本当にコアな部分だから、ここはちょっと自分で頑張った方が私の人間性が安定するんじゃないかと思ったり。はたまた、意地を張らずに言って頼っちゃえばいいやんっていう思いもあったり。でもそれって私は何を求めてるんやろう?

人って結局どこまでもわかり合えるわけじゃないから、言ったのにわかんないの!ってなったら余計にへこみそうやし(笑)。でも「こういうことあるんやな」って頭の片隅に置いといてもらえたら、旦那にとっても楽なんかな…とか。ぐるぐるしてます。

とりあえず、もう少し一人で頑張ってみたい。何より大事なのは、この傷を子どもにそのまま拡大再生産しないことなので、難しそうだったら旦那に協力を仰いでみようかな。

模索は続きますが成長痛だと思って頑張ります。お読みいただきありがとうございました!

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