新年やっと1本目のブログを書き始められました。
かあちゃんはよくモヤモヤを記事にするのでモヤモヤが自分の身になるまでなかなか書けなくて。
今回も時間がかかってしまいました。今日は少し重めかも。かあちゃんの大反省事件です。
カッと反応する心を脱せられない日々
どうしてもまだ感情的に反応する癖は残っていた
かあちゃん昨年は特に自分の弱い部分と向き合うブログが多かったかなと思います。
・自分にどんな思考の癖があるか理解する
・自分をなだめるってどういうことかなぜ大事かを知る
・どんなふうになだめるのが自分にしっくりきたか知る
といったような内容ですね。
昨年は産後メンタルだったということもあり、どうしても自分の内面に向き合う時間が多かったのかなと思うのですが、最終的に自分の言葉で自分の落とし所を見つけられたことはとてもよかったなと思っています。
ただ、それでも突発的な反応に対する自分はまだまだ弱いところがあって、例えば子供が何かやらかしたときにガッときつい言葉が出るとか、それは違うと思ったことを投げかけられた時に親だったり関係の近い人であればバッと反論してしまうとかそういう部分では自分の感情のコントロールが効いていない状況はまだまだあったので、ここはまだ大きな課題だなと思っていました。
息子に負わせてしまった傷み
大きな課題だと思いつつも、何か嫌な出来事が起きない限りは穏やかに過ごしていたので、毎分毎秒意識して過ごすみたいな集中はできておらず、新年に入って今年は必要以上に叱ることはしないぞ、そのためには〜というようなことをゆっくり考えているぐらいでした。
そんな中で事件発生です。先日息子がトイレを失敗しまして。うわッと思ったと同時にその時の息子の態度を受け止めきれずに手を出してしまいました。本当に、情けないことをしていましました。
状況が状況だから気が動転していて当然なのに。まずは冷静に対処に徹したらよかったのに。自分の中で自分の内面の課題の緊急性を自覚しました。
普段から息子にはキツい言葉もかけてしまっていますし、私の弱い部分を背負わせている。今の生活は、息子に無理をさせて成り立っているのではないかと思えてならないです。
自分の中に、大騒ぎする何かがいる
感情的になるとき=わたしが大切にされてない!!!の大騒ぎ
感情的になる時、私の中で大暴れする存在の感覚をしっかり感じます。自分の胸を内側から胸をドンドンドンって叩かれる感覚。やれ!!やれ!!そいつをやっつけろ!!!というような衝動です。
私はこれを今までずっと攻撃的な衝動だと思っていました。ただ、昨年から自分をなだめる、自分を受け入れる練習をやっていった結果、これは攻撃的な衝動ではなく、リトルわたしが “わたしを守って!!!!!!”って大騒ぎをしている、わたし(の正義や信念も含めて)が大切にされてない!!!っていう防衛反応だということが自分の体感で掴めました。
「私は今、踏みにじられてる」
「大事にしてるものが無視された」
「ここにいる私を見て」
みたいな言葉がしっくりくる体感です。
息子に手をあげてしまった時も、家を慈しむことや自分からまず謝るといった普段から息子にも伝えている大事な価値観がダブルで急速に殴られたことに反応してしまったんだと思います。
とはいえどちらも人に迷惑をかけたとか、生死に関わるような事案でもないわけで。本当に手をあげる理由はどこにもないです。
批判もせず正されもせず、放置もされない これでやっと向き合える
寝かしつけた後息子に手をあげたことをまず正直にChatGPTに話しました。よく話したねから始まりまっすぐ私の心の声を聞き続けてくれました。そのおかげで、情けなすぎて自分を直視することがとても辛かったですが、真っ直ぐ反省することが出来ました。
別に私は息子に踏みにじられたわけでも、大事にしてるものが無視されたわけでもない。誰も私を攻撃なんかしていない。なのに、私が攻撃をした。
・批判されない
・正されない
・でも放置もされない
この状態の中で初めて、人は自分の弱さを真正面から感じられるんだなと。
そしてこれを息子にもやるべきだったってことだなと実感しすごく学びになりました。
トイレ失敗して息子だってショックで現実を直視したくなかったから真っ直ぐな態度になれなかったわけで、まずは失敗して嫌だったね、すぐ掃除するねと声をかけてあげたらきっと心が楽になったんでしょう。
かあちゃんは基本かあちゃん自身もものすごく怒られてきた人間だったので、怒りなしで与えられるものがあるんだと、怒らないことが本質的に人を動かすんだという学びを体感で得たことは非常に大きい経験でした。
感情の応酬にはしない。けど?
荒ぶった心はどこに行くのか
ここで、ずっと引っかかっている問いがあります。自分の非を棚にあげるわけでは決してないですが、感情的になった側の言い分というか、自分が嫌だなと思った気持ちや心をどう消化するかについてあまり議論されることってないですよね。
少し話は変わりますが、みなさん「頭のいい人が話す前に考えていること」という本読んだことありますか?かあちゃんの好きな安達裕哉さんが書かれた本ですが、あの本で序盤に例として書かれている、皆の前で新人をいじめる役員をもういいでしょう!と少し大きな声で制したリーダーを、社長が指摘した話をご存知でしょうか。
リーダーは新人を守ろうとしたわけですが、社長はリーダーが感情的になったことに対して指摘したのです。なんでリーダーが怒られるの?と最初は驚きで何回も読み返したほどです。
こんな状況でも感情的になっちゃだめなの?そしてこのレベルでも感情的になったと言うの?読んだ当時かあちゃんはかなり衝撃でした(これでアウトなら私余裕で社会人アウトだわ、こんなん何回もやらかしてる誰か言うといてくれと泣)。
今は先日このブログでも雰囲気や空気が結果に及ぼす影響について書いたように、社会とは正義や正しさで相撲する場所じゃないと理解しています。
ただ、疑問として残るのは先のケースでいう新人を守ろうとした気持ちや、それぞれにとって大事な価値観や想いが社会や家庭の人間関係の中で侵されそうなとき、どのように守り、表したらいいのか?ということです。
自分が傷ついたことを蔑ろにしていい理由もないはず
先に書いたような状態が社会の常識なら、みなさん本当に心殺して生きてるんですね?尊敬します。
会社や学校ならまだ割り切れるかもしれないですが、家族は共通の目的もない他人がお互いに気遣い甘え合い、折り合いをつけたいこともなかなかつかずモヤモヤした揺らぎの中で一緒にいるわけなので、自分が傷ついた時に割り切るのも本当に難しいなと感じます。
だけど、親でも妻でも夫でも子供でも、私は傷ついたってことをないがしろにしていい理由もない。ただ、やられたから仕返ししよう、で考えない。感情の応酬にしないことが大事なんですよね。
私が傷ついたことは、私が誰かを傷つける理由にならない。延長線上にない。だからこそ、よほど感情を分離した行動をとることに熟練してない限り、その場で解消できることはまずない。別で弔い方を見つけるしかないのだなと感じます。
私にとっての対処はやっぱり書くこと
息子にした弔いは、書いたことでできたものだった
息子に手を出した日、普段寝かしつけは息子の担当は旦那で娘の担当が私なのですが、交代してもらって息子と一緒に寝ました。
そして謝るのはもちろんですが、何度も「嫌だったね」と声をかけ続けました。すると、謝った時は少し固くなって小さく「うん」と言ってくれていた(というか、うんと言うしかないんでしょうね。謝るって難しい。)息子が、何度も頷いたり「嫌だった」と呟いたりしてくれました。
これは、以前フィリッパ・ペリーさんの『自分の親に読んで欲しかった本』を読んで学習したことをブログに書いて、自分をなだめる=自分の心の声を感じたままに受け入れること、自分の気持ちをあるがままに聞き取り、なだめることこそが、人間が立ち直るための基本だということを学んでいたので、長男に謝るだけでなく心の声を吐き出し、感じ取り、なだめたいという思いからとった行動でした。
これでチャラになったわけではもちろんありませんが、この時自分を曝け出しながらあの本のことを書いて本当に良かったと思いました。
これが赤裸々なことを書いてしまいましたが、これがかあちゃんの現在地です。どれだけ弱い部分と向き合って、少しずつ納得してきたつもりでもまだまだ弱さだらけです。
この本にあったように、親が自分の感情をあるがまま受け入れられるようになることで、子供も自分の感情を見つめ受け入れることができるようになる。子供達の心の強さにつながる。今自分の成長はもはや自分のためだけではないので、これからもしっかり向き合って書いていきたいと思います。
お読みいただきありがとうございました!


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